柴山文科相が「今後の教育の在り方に関する総合的な検討」を中央教育審議会に諮問したというニュースが報じられた。
「小学校に教科担任制の導入など従来の義務教育の枠組みを超えた包括的な検討」ということが主なポイントだ。
少子化が進み児童数が減少したことが背景にあるという。
来年度から実施される新学習指導要領ではグループ活動による対話型の授業が重視されるのだが、児童数の減少により地域によってはグループ活動ができないという問題があるのだそうだ。
集団で学ぶ環境を維持するためには複数の自治体が共同で設置する学校で学ぶという方式が検討されるらしい。
(出典:https://www.sankei.com/)
小学校の教科担任制の導入
「小学校の教科担任制の導入」は、この包括的な取り組みの中で浮上したものだそうで、具体的には小学校1年~4年までは従来どおり各自治体が設置する学校で学び、5年以上は教科担任制とし、児童数が少ない場合は自治体が共同で設置する学校で学ぶという制度だ。
音楽、図工、家庭科などの教科については以前から教科担任制が実施されている自治体もある。
男性教員の場合は家庭科の授業が不得意であるとか、音楽の指導にはピアノの伴奏が必要などの教員の特性を考慮した結果かも知れない。
小学校の教育現場での経験があるが、教科担任制は教員にとっても児童にとっても好ましい方向性だと思う。
(出典:https://www.yomiuri.co.jp/)
教員の立場から見た教科担任制
まず教員の立場から言うと教材研究に要する時間が軽減できるという点だ。
子供にとってわかりやすい授業を展開するのには綿密な教材研究や資料作りが不可欠だ。
また、高学年の理科で実験の授業をする際は薬品を使うなど危険を伴う場合もある。アルコールランプの点検や実験器具の点検にも細心の注意が必要となる。
家庭科の調理実習についても同様の事が言える。社会科については資料作りは魅力ある授業のためには重要な要素だ。
教員の仕事は授業と教材研究が主な仕事と思われがちだが、ノートやテストに目を通し添削することや学校運営上必要な会議、書類作成などを合わせると勤務時間を遥かに超える膨大な仕事量なのだ。
1日の授業を終え放課後の限られた時間内で諸々の仕事を処理していると明日の授業準備が充分にできないまま当日を迎えることになる。
もちろん、満足な授業とは言えず反省点ばかりが残る授業となってしまう。
子供の立場から見た教科担任制
次に子供の立場から見て「教科担任制」はどうか。
一概には言えないが、音楽の好きな先生に指導を受けると子供は音楽の楽しさを学び音楽が好きになる。
理科の好きな先生が充分な準備をして臨む授業は実に魅力的だ。
社会科の授業では写真などの具体的な資料を取り揃えて示すと子供たちは目を輝かせる。
しっかりと段取りを整えて実施された家庭科の調理実習では子供は料理の成功感を味わい料理の楽しさを覚える。
授業の準備が充分にできるということは子供たちにとってわかりやすい楽しい授業を保証するものなのだ。
学校の教員は誰しもそのような授業を目指しているものなのだが、実際はそのほかの校務などに追われ充分に教材研究や授業の準備をできずにいるというのが実態だと思う。
「担任制」の教育的意味合い
従来からある「担任制」には教育的な意味もある。
そもそも学校教育は学力を高めることのみに終始するのではなく「教科を通して全人的な人間の育成」ということを謳っている。
従って一人の担任により総合的に指導することが望ましいという考えに基づいているのだ。
しかし、これには弊害もある。それぞれの教員には個性があり考え方の偏向性がないとも言えない。
子供の側から見ると相性の合う合わないという問題も出てくる。
通常の場合担任は少なくとも一年間は同じクラスを受け持つことになる。
この期間に子供が担任から受ける影響は良きにつけ悪しきにつけ大きいものがある。
特に成長期の子供に及ぼす影響は計り知れない。その点、「教科担任制」だと子供は複数の教員から指導を受けることになりそれぞれの教員の持ち味を生かした教育を受けることができる。
子供に対する見方・捉え方についても複数の教員の目で見ることにより、断定的な捉え方に陥ることなくそれぞれの子供の良さを引き出せることにも繋がるだろう。
教科担任制は高学年に留まらずもっと下の学年にも広げても良いのではないかとさえ思う。
ただ、実際の場面では自治体間の連携や通学、教員免許状の問題など様々な課題がある。
中教審で建設的な議論がされることを期待したい。
次代を担う大切な子供たちの育成に関わる問題なので学校教育の関係者・専門家だけの議論に留まらず国民全体から広く意見を求める場があっても良いのではないかと思う。
また、今回検討されている「小学校教科担任制の導入」が深刻な社会問題化している「いじめ問題」への影響についても慎重に検討してほしいと願う。
新元号について
4月1日に新元号が発表されると国内は祝賀ムードに包まれた。
新聞の号外に人々が殺到する風景がテレビ画面に映し出されていた。
テレビのワイドショーでは数日前から「新元号を予想する」などという特集が組まれ、国民の関心は最高潮に達していた。
「令和」と決まると同じ名前の人がテレビの取材を受ける光景や動物園や水族館の動物が上手に「令和」の文字を書いて披露する様子が放映され、晴れの日に彩を添えていた。
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知人との話題も「令和」で盛り上がり、人々の関心の強さが伺われた。
なぜ、元号のニュースでこれほど日本中が湧いたのだろうか。人々にとって「元号」はそれほど身近な存在であることの証明だ思う。
また、「平成」が「令和」という元号に代わることが新しい時代の幕開けを感じさせる期待感があるのかもしれない。
最近、「年」を表記する際に西暦で記すことを指示されるこケースが増えてきた。
市役所の申請書などは西暦、元号どちらでも良い場合が多いが、ネットなどの会員登録は殆どの場合が西暦での表記と言ってよいだろう。
以前は自分の生年月日を記す際に西暦を問われると戸惑うことが多かったが、次代の流れの中でいつの間にか西暦が定着したきた感がある。
また、昭和○○年と書く場合と比較すると4桁の数字で済むという手軽さもある。
西暦と元号の両方存在することで煩わしさがを感じている人も多いと思う。「今年は何年だっけ?」と思い出そうとする場合、「西暦」「元号」の両方を想起してどちらの数字がどちらだったか混乱することがある。
この2つの数字の存在が煩わしいさの原因だ。このような事情を背景に「年号を一本化したらどうか」という意見がある。
「世界的に通用するのは西暦であり、国際化社会の中では当然の事だ」とする意見だ。
元号発表で祝賀ムードに包まれる一方で、「元号制反対」という意見もある。
果たして元号を廃止することは国民にとって受け入れられる考え方だろうか。もちろん国民と言っても様々な立場や感性があり一概には論じることはできない。
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